28歳人妻がリフォーム業者の親方に布越しに焦らされ続けた木曜日・第1話【焦らし】
うちのキッチンをリフォームに来た40代の親方と、専業主婦の私(28歳)の木曜日の話・第1話。夫を送り出した手で渡したマグカップで指の腹が触れた──まだ何も起きていないのに、夜のお風呂で自分の指を中に沈めてしまう、来週の木曜日を数え始めた六月末の記録。
新しいシンクから流れる水の音は、まだ少しよそよそしい。
蛇口を捻る角度が前と違って、はじめのひとひねりで思ったよりも勢いよく湯が落ちる。とぷん、と水底で何かが弾ける。私はその音を、台所の流しの中に閉じ込めるみたいにして聞いている。それから、止めるのを忘れたまま、しばらく流れに任せている。
一ヶ月前まで、この場所には別のキッチンがあった。十五年使った、扉の蝶番がゆるんで、隅にカビの黒い染みが残ったキッチンが。それを壊した日のことを、私はたぶん、これから一生、忘れない。
六月の終わり、梅雨が明けきらない朝のことだった。
午前六時に夫の弁当を詰めて、七時前に玄関で送り出した。「行ってらっしゃい」を言いながら、私はもう半分、廊下に敷かれた青い養生シートのことを考えていた。前日の夜に職人さんたちが入って、家のなかをぐるりと養生していった。床も、廊下の壁の腰のあたりまでも、玄関のドアの内側まで、青白い不織布で包まれていた。家がまだ家のままで、なのに少しだけ、別のものに変わりかけているような朝だった。
夫の車のテールランプが角を曲がるのを見届けて、私はキッチンに戻った。古いほうの、最後のキッチンに。コーヒーをいつもより少しだけ濃く淹れた。豆を多めに挽いて、湯の落とし方をいつもより遅らせて、湯気が立ち上るのを、まな板の前に立って、ぼんやりと眺めていた。
朝の七時、玄関のチャイムが鳴った。
「おはようございます。○○リフォームです」
低い声だった。低くて、少しだけ掠れていて、ああ、これは煙草を吸う人の声だ、と私は思った。夫は煙草を吸わない。私の父も吸わなかった。そういう声を、家のなかで聞くのは久しぶりだった。
「奥さん、今日からよろしくお願いします」
玄関で頭を下げた職人さんは、たぶん四十代の半ばだった。日に焼けていて、髪は短く刈り込まれていて、紺の作業着の襟元から、首筋の太い筋が覗いていた。背は私より頭ひとつ高くて、肩幅が、夫よりずっと広かった。「よろしくお願いします」と、私も頭を下げた。「コーヒー、ありますけれど」と言いかけて、まだ何もしていない人にこれは早いか、と思って、言葉を飲み込んだ。
彼は何も言わずに、玄関の三和土に工具袋を下ろした。重そうな金属の音がした。それから、ゆっくりと立ち上がって、私の後ろのキッチンを見た。じっと、品定めをするみたいに見た。「ずいぶん長く使われたんですね」と彼が言った。私は曖昧に頷いた。「十五年、です」と言うのが、なぜか少しだけ恥ずかしかった。
解体は、思っていたよりずっと静かに始まった。
ガス屋さんが先に来て、配管を落としていった。それから水道屋さん。最後に残ったのが、彼だった。「親方」と呼ばれていた、寡黙な、私と同じくらいの歳の男の人。
私はリビングの隅に椅子を運んで、文庫本を持って、そこに座った。本当は二階にいてもよかった。引っ込んでいてくれて構いません、と昨日の打ち合わせで言われていた。でも私は、なぜかリビングの隅にいた。本を開いたまま、文字をひとつも追わずに、ただ視界の端で、彼の背中を見ていた。
彼の背中には、紺の作業着の上から、汗の輪が広がっていた。最初は肩甲骨のあたりに、薄い半月のように。午前の十時を過ぎる頃には、その半月が大きくなって、背中の真ん中で、ひとつの濃い影になっていた。彼は何度かタオルで顔を拭った。首筋に短い髪が貼り付いていて、それを彼自身が気にする様子はなかった。
私の家のなかに、夫ではない男の人の汗の匂いが、少しずつ、立ち込めていった。
それは、嫌な匂いではなかった。汗の匂いと、解体されていく古い木材の埃の匂いと、養生シートの新品の不織布の匂いが混ざって、家じゅうに、まだ嗅いだことのない空気が流れていた。私はそれを、本のページを繰るふりをしながら、深く息を吸って、肺の奥にためた。
お昼前にコーヒーを淹れた。電気ポットはまだ生きていて、隅に追いやられたカウンターの上で、いつも通りに湯を沸かしていた。マグカップをふたつ。砂糖とミルクは、彼の好みを知らなかったから、別の小皿に載せて、お盆ごと運んでいった。
「すみません、お構いなく」と彼は言った。そう言いながら、彼は工具を置いて、軍手を取って、私のマグカップを受け取った。指の節が太かった。爪が短くて、白い半月が綺麗に揃っていた。私はそれを、見ていた。
「奥さん、これ、美味しいですね」
彼は一口飲んでから、低く、そう言った。それだけだった。それだけのことだったのに、私は、心臓のあたりが、少しだけ熱を持つのを感じた。私は「いえ、普通の豆ですから」と答えた。声が、自分でも驚くくらい、少し震えていた。
その日の午後、私は本を一行も読まなかった。ただ、彼の背中の汗の輪が、午前より少しずつ大きくなっていくのを、目の端で測っていた。
夕方の五時前、彼は工具をしまい始めた。
「今日はここまでで、明日また朝に伺います」
「あ、はい、よろしくお願いします」
私は玄関まで送りに出た。彼は三和土で靴紐を結び直していた。屈んだ背中の、首筋に貼り付いた短い髪。そこから、檜の削りかすみたいな匂いがした。たぶん午後に解体した古い棚の木の匂いと、彼の汗の匂いが、ひとつになっていた。そういう匂いを、私は知らなかった。家のなかでは、嗅いだことがなかった。
立ち上がりかけた彼が、工具袋を持ち直そうとして、肩を少しだけ捻った。その拍子に、彼の腕が——前腕の、肘から手首までの、太い、日に焼けた腕が——戸棚の縁に立てていた私の腰を、ほんの一瞬、掠めた。布の上から。ジーンズの腰骨のあたりを、彼の腕の硬い部分が、すうっと撫でるみたいに、通り過ぎていった。
「すみません」と、彼は低く言った。
それだけだった。目も合わなかった。彼は工具袋を肩に担いで、「では」と頭を下げて、玄関を出ていった。
私は、しばらくその場から動けなかった。
腰のあたり、ジーンズの上から触れられた、その布の内側の、皮膚の、ほんの一点だけが、熱を持っていた。本当に小さな、五百円玉ひとつぶんくらいの、その範囲だけが、燃えるみたいに熱かった。私はその場所に、自分の手のひらを当てた。当てて、押さえて、深く息を吐いた。何でもないのだ、と自分に言い聞かせた。何でもない、ただ通り過ぎただけ、彼は気づいてもいないだろう。
なのに、私の手のひらは、震えていた。
その夜、夫は遅かった。
九時を過ぎてから帰ってきて、お風呂、ご飯、と短く言って、シャワーを浴びて、ビールを一本飲んで、寝室に入っていった。「明日も早いから」と彼は言った。「うん、おやすみ」と私は答えた。
私は最後にお風呂に入った。三十七℃のぬるい湯のなかで、私は、自分の体を、少しずつ確かめていった。
首筋。彼がタオルで拭っていたあたりの、私自身の同じ場所。指で辿ると、湯のせいなのか、いつもより熱かった。鎖骨。それから胸の谷間。ジーンズの腰骨のところ。あの五百円玉ぶんの、彼の腕が掠めた場所。指で触ると、まだ少し、熱い気がした。気のせいだ、と思った。気のせいに決まっている。
なのに、私の指は、その熱を追いかけて、止まらなくなった。
腰骨から下に。お腹のところ。それからもう少し下、内ももの、付け根のあたり。私は、知らないうちに自分の指を、口に含んでいた。湯気のなかで、人差し指の腹を、舌の上にのせて、軽く噛んだ。檜の削りかすの匂いがした気がした。たぶん、気のせいだった。お湯と石鹸の匂いしかしないはずだった。
なのに、私の体は、その匂いを思い出していた。
寝室に戻って、夫の隣に滑り込んだ。夫はもう寝息を立てていた。背中を向けて、規則正しく、十五年聞き続けてきた呼吸。私はその背中を、しばらく見ていた。それから、目を閉じた。
——来週の木曜日も、彼は来る。
そう思った瞬間に、私の左手の薬指の指輪が、ほんの少しだけ、きつくなった気がした。お湯で温まったせいだ、と思った。たぶん、そうだ。私はその指輪を、回そうとして、けれど夫の隣で指輪を弄るのが、急に怖くなって、止めた。
代わりに、私は、来週、何を着ようかと、考え始めていた。
子どもが学校に行っている時間、夫が会社にいる時間、家のなかに、彼と、私しかいない時間。コーヒーを淹れて、彼が「美味しいですね」と低い声で言う、その時間に、私が何を着ているか。エプロンの色、その下のシャツ、髪をどう結ぶか。考えながら、私は、もう自分が何を考えているのかを、わかっていた。わかっていて、考えるのを、止めなかった。
天井の暗闇の向こうで、廊下の養生シートが、夜中の家の空気のなかで、かさり、と小さく鳴った。家は、もう半分、解体されかけていた。家のなかの私も、たぶん同じだった。
来週の木曜日まで、あと六日。
私はその夜、なかなか、眠れなかった。
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